
西光寺縁起
西光寺(天台真盛宗 光明山 乗律院 西光寺)は延徳元年(1489)に、越前の領主として権勢をほこった一乗谷城主、朝倉貞景の家臣、上田兵衛尉盛忠によって福井市岡保村に建立された。
一乗谷領地の取り合い合戦で勝った朝倉側が、負かした相手を供養するために建立したと伝えられる。
6月4日の落慶法要では天台真盛宗を開いた真盛上人が導師役となり、一代目の住職となる。

朝倉貞景公寄進の梵鐘(左内町)

境内の様子
落慶法要の真盛上人の説法が始まったとき、それまで晴れあがっていた空から急に大粒の雨が降り出した。雨はまるで西光寺を包んでいる空気を清めるだけのように十数秒降っただけで、また元の好天に返った。
すると、空一面が七色に光り輝き、西の方から三光(日、月、星の光)が差し込んだという。
【延徳元年西光寺 落慶供養の有りし時 三光並び照らしてぞ 天華のふれる奇瑞有り】
宗祖円戒国師和讃より
間もなく真盛上人は西光寺を弟子の盛全(二祖盛全上人)に託し、根本道場の西教寺へ帰ることとなる。悲しむ人々に対して真盛上人は、近くの湧水の出る池に自分の姿を映し、木を彫り自分の木像を造った。
『私は永遠にこの地にとどまり、この法城を護り続けるであろう。』と残し、その後西光寺は、近郊の人々から深い信仰を得て大いに盛えた。
朝倉貞景は【岡の西光寺】と愛称し、梵鐘(つりがね)を寄進したのを始め、歴代の城主や重臣たちが寺を守った。

真盛上人が姿を映して木像を彫った池(次郎丸町)