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勝家公縁起

織田家との戦に敗れた朝倉一族は衰退の一途を辿る。
そして天正3年(1575)越前の国主としてついたのが柴田勝家であり、北の庄(現在の福井駅付近)に城を構え、城下町を造っていった。
城下町発展のために寺の移築計画が始まり、勝家は西光寺を北の庄に移そうとしたが不思議なことが起こった。普段は1人でも軽々持ちあがる御木造が、勝家の家来の大男たちが何人掛かりで持ち上げようとしても持ち上がらなかったのである。(西光寺縁起下段参照)
結局、岡保村からの寺の移築、御木造の移転は諦めることになり、新たに北の庄西光寺を建立し、別の御木造を新調して安置した。

西光寺本堂正面

勝家公・お市の方の御木造(資料館1階)

余談になるが、昭和20年7月、アメリカ軍の空襲を受けた北の庄西光寺は全てを焼失してしまったが、岡保村の西光寺は戦災を免れ、その御木造は500年経った現在でも岡保村に安置されている。
それが真盛上人が自分で彫った自身の御木造である。単なる偶然とは思えないが、今なお西光寺を護っていただいている。

こういった縁で勝家は西光寺を菩提所と定め、当時の9代真誉上人に自分の死後の処理と供養を懇請した。
天正11年(1583)4月24日、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は妻のお市の方、茶々、初、江の待つ北の庄へと戻り、お市とともに北の庄城で生涯を終えた。勝家63歳、お市37歳であった。

西光寺に残る言い伝えでは、三姉妹を秀吉側に渡したのではなく、北の庄西光寺にかくまったと言われている。

平成24年は勝家、お市が亡くなられて430年忌に当たる。4月24日には全国の柴田勝家公の血縁の方々が西光寺に訪れ、命日法要を執り行っている。

勝家祭り

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