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概要

出自や前半生は不明な点が多く、詳しいことは不詳であるが織田信長の父・信秀に仕え、のちに信長の弟である信行(信勝とも)の家老となった。はじめは「うつけ」と呼ばれた信長を嫌い、彼を廃嫡して信行をかつごうとしていたが、稲生の戦いにて信長に敗北し、それ以降は信長派に転じた。

非常に勇猛であったため「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、六角氏に兵糧攻めを受けた際は、残りの全ての水を兵士に分けた後に水瓶を叩き割って出撃したため「瓶割り柴田」とも呼ばれた。

1582年に織田信長が本能寺の変で自害すると、織田家の後継者に信孝(信長の三男。勝家が烏帽子親を務めていた)を推すが、信忠(信長の嫡男。本能寺の変にて死亡)の息子である三法師を挙げる羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立した。結局、信長の敵討ちをした秀吉に押し切られる形となり、織田家臣内での秀吉の地位は増大する。

そのまま秀吉との対立は深まり、賤ヶ岳にて秀吉と合戦、敗北。妻・お市の方と共に北の庄城で自害した。行年63歳。

柴田一族末裔を招いての墓前法要祭(勝家まつり)

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人物

勇猛であっただけでなく、信長からも強い信頼を得ていた。また前田利家とも親しく、利家が信長のお気に入りの茶坊主を斬って織田家を出奔した際も、利家を気にかけていたとされる。

また越前を治めていた頃に刀さらえ(刀狩)を行い、集めた武具を作り変えて農具にし、領民に渡したと言う。

妻・お市の方とはわずか1年にも満たない夫婦生活だった。落城の時、勝家はお市に逃げるように勧めたが、お市はこれを拒み、勝家と運命をともにした。

2009年に亡くなった日本画家の重鎮・平山郁夫氏は勝家の子孫とのことで、平山家初代・柴田孫左衛門は勝家の孫とされている。

柴田勝家

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